制作事例 Highway Fee 第1回:フェーダーを上げるための「引き算」――キックとベースで低域の土台を固める
今回から、オリジナル楽曲「Highway Fee」のミキシングからマスタリングまでの制作事例を、全5回の連載で紹介します。
この連載では、実際の制作工程をもとに、ミックスでどのような問題が起きていたのか、どのように原因を判断し、どのような処理を行ったのかを追っていきます。
第1回のテーマは、キックとベースの低域処理です。
ミックスでキックやベースが埋もれているとき、単純にフェーダーを上げるだけでは問題が解決しないことがあります。ほかの楽器が必要な帯域を占有していたり、複数の音源が重なって音の焦点が定まらなかったりするためです。
今回の「Highway Fee」では、キックのアタックがベースに埋もれていた問題に対して、キックだけを持ち上げるのではなく、ベース側の帯域を整理してスペースを作るという判断を行いました。
この記事では、実際のキックとベースの処理を通して、「聞こえない音を上げる」のではなく「邪魔をしている要素を削ることで、結果的にフェーダーを上げられる余地を作る」という、引き算のミキシングの考え方を紹介します。
モノラルの土台から始める
使用プラグイン:SSL Console、Oxide Tape
「Highway Fee」はAマイナー、BPM118で、ロックバンドセクションとEDMドロップという2つのスタイルが1曲の中で切り替わる構成になっています。
ボーカルは生録音、パート編成はドラム、ベース、ギター、ピアノ、リードシンセ、ボーカルなど多岐にわたり、トラック数は100を超えます。
このプロジェクトは外部クライアントからの依頼ではなく、「引き算のミキシング」「フェーダーを上げるためのEQ/コンプ」という考え方を解説・書籍化するための自主制作教材として進められました。
そのため、通常であれば意識していても言語化しないような判断の過程を、できるだけそのまま記録しています。
第1回では、ミックスの出発点となったキックとベースの処理を取り上げます。
この記事で扱う内容
・キックのアタックが埋もれていた原因
・キックの位相ズレに対して行った補正
・EQとコンプレッションによるキックの処理
・ベースの音の焦点を整えるための処理
・キックとベースのタイミング調整
・フェーダーを上げる前に不要な要素を整理する「引き算」の考え方
作業前の準備――ミックスの土台をそろえる
使用プラグイン:SSL Console、Oxide Tape
トラックへの本格的な処理に入る前に、いくつかの準備を行っています。
まず、アシスタントによるゲインステージングがすでに完了しており、各トラックの入力レベルが整えられた状態からスタートしています。
次に楽曲全体を聴き込み、ロックセクションとEDMドロップという構成を把握します。
そのうえで、コンソールのSSL ConsoleとテープエミュレーションのOxide Tapeを全体のルーティンとして適用し、各トラックに18Hz以下のローカットをかけています。
これは特定の1トラックを改善するための処理ではなく、この先のミックス作業全体の下地を整えるための工程です。
この段階を終えたところから、制作はまずモノラル、つまりセンターに定位する要素から組み上げていきます。
キックとベース、続いてスネア、ボーカルという順番でセンターの土台を固め、そのあとにサイドの要素や空間処理へ広げていく組み立て方です。
今回扱うキックとベースは、その最初の工程にあたります。
キック――アタックが埋もれる原因を探す
使用プラグイン:InPhase、SSL Console、Waves C1、Frequency EQ、SSL G Bus Comp
何が起きていたか
最初に確認したキックの問題は、大きく2つありました。
ひとつは、ビーターとフロントヘッドのマイク間に位相のズレがあったことです。
複数のマイクで収録したキックでは、それぞれの音が時間的にずれていると、重ねたときに音が薄くなったり、狙ったアタックが出にくくなったりすることがあります。
もうひとつは、ベースの存在感に押されることで、キックのアタック感を担う1kHz/5kHz帯域が埋もれていたことです。
つまり、単純にキックの音量が足りないという問題ではありませんでした。
キックそのものの位相を整えることに加えて、ベースとの帯域上の関係も整理する必要があります。
位相のズレを補正する
位相のズレに対しては、InPhaseを使用して補正を行いました。
あわせて18Hz以下をカットしています。
ここでは、まずキックそのものが持っている情報を整理し、後続の処理を行うための土台を整えています。
アタックを「足す」のではなく、形を整える
キックのアタックについては、ビーターの音にSSL Consoleを使用し、+4dB in / -4dB outで色付けを行いました。
その後、Waves C1をアタックタイム0.01msという非常に速い設定で使用し、トランジェントを圧縮しています。
これは、アタックの角をあえて潰すことで音の太さを抽出し、後段でフェーダーを上げる余地を作るための処理です。
さらにFrequency EQで1kHzと5kHzをブーストし、SSL G Bus Compを通しています。
ここで重要なのは、キックのアタックを目立たせるために、キックだけを単純に大きくしているわけではないことです。
ベース側の帯域を整理して、キックの場所を作る
今回の処理で特に重要なのが、キック側だけではなく、ベース側にも目を向けている点です。
キックの1kHz/5kHz付近のアタックが埋もれているのであれば、その帯域をキック側でブーストするだけでなく、ベース側の同じ帯域を整理することで、キックが存在できる場所を作ることができます。
つまり、
「キックが聞こえないからキックを上げる」
のではなく、
「キックを邪魔している音を整理して、キックが聞こえるスペースを作る」
という考え方です。
これが今回の「引き算のミキシング」を象徴する判断のひとつです。
結果
これらの処理によって、低域の量感が復元され、ベースと同時に鳴らしてもキックが埋もれない状態になりました。
ゲインリダクションの目安はおよそ3dBです。
重要なのは、キックのフェーダーを単純に持ち上げるのではなく、位相、トランジェント、周波数帯域、そしてベースとの関係を整理することで、キックが必要な位置に収まる状態を作ったことです。
ベース――音の焦点をキックに合わせ直す
使用プラグイン:UAD Sound City Studios
何が起きていたか
ベースには、録音時に使用していた古いオフマイクにギターの音が被ってしまい、音の焦点が定まらないという問題がありました。
さらに、キックとのタイミングにもモタつきがあり、低域同士がうまく噛み合わない印象になっていました。
ここでも、単純にベースの音量を調整するだけでは問題を解決できません。
音そのものの焦点と、キックとのタイミングという2つの側面から整理する必要があります。
音の焦点を再構築する
音の焦点については、UAD Sound City Studiosを使用して再構築しています。
ルーム1にはC10、ルーム2にはRCA54を選択し、焦点距離を合わせることで、より攻撃的な質感を狙っています。
あわせてプリフェーダーセンドを-9.82dBに設定しました。
ここで行っているのは、単純なEQによる周波数調整だけではありません。
録音時に入り込んでいた別の音の影響も含め、ベースそのものの音像を再構築することで、キックと組み合わせたときに必要な輪郭を作っています。
タイミングは「全部合わせない」
もうひとつの問題が、キックとのタイミングです。
DAW上で手動によるタイミング補正を行っていますが、ここではベース全体を機械的にキックへ合わせる方法は取っていません。
コードチェンジの瞬間だけをキックにぴたりと合わせ、それ以外はあえて手を加えないという判断をしています。
これは、すべてを完全にグリッドへ合わせるのではなく、バンドとしてのラフな一体感を残すための選択です。
ミックスでは「ズレているから全部直す」という判断が、必ずしも最終的な音楽性につながるとは限りません。
今回のベースでは、必要な部分だけを補正し、残すべきタイミングの揺らぎは残しています。
結果
ベースの低音の深みとアタックの輪郭がそろい、キックのアタックもより明確になりました。
ここでも、単純にベースやキックの音量を上げるのではなく、音の焦点とタイミングを整理することで、2つの低域が同時に機能する状態を作っています。
「聞こえないなら上げる」ではなく「邪魔なものを削る」
今回のキックとベースの処理に共通しているのは、「聞こえにくい音をフェーダーで持ち上げる」という発想を最初の選択肢にしていないことです。
キックのアタックが埋もれているとき、キックのフェーダーを上げるだけでは、ベースとのマスキングがさらに強くなる可能性があります。
そこで今回は、キックの位相を整え、アタックの形を調整すると同時に、ベース側の帯域を整理してキックが存在できる場所を作りました。
ベースについても、音量を上げるのではなく、録音時に混入したギターの影響を含めて音の焦点を見直し、さらにキックとのタイミングを必要な部分だけ補正しています。
このように、今回の「引き算のミキシング」は、
「足りない音を足す」
のではなく、
「必要な音を邪魔している要素を整理する」
という考え方です。
その結果として、フェーダーを上げてもほかの音との衝突が増えにくい余地を作ることができます。
今回のキックとベースは、その考え方を低域の土台で実践した工程です。
今回のミックスから分かること
今回の工程から分かるのは、キックとベースの低域処理では、単純な音量調整だけではなく、複数の要素を切り分けて考えることが重要だということです。
今回実際に行った処理を整理すると、以下のようになります。
・キックのマイク間の位相を補正する
・キックの不要な超低域を整理する
・キックのトランジェントをコンプレッションで整える
・1kHz/5kHz付近のアタックを調整する
・ベース側の帯域を整理してキックのスペースを作る
・ベースの音の焦点を再構築する
・キックとベースのタイミングを必要な部分だけ補正する
・すべてを機械的に揃えるのではなく、音楽的な揺らぎを残す
つまり、「キックを大きくする」「ベースを大きくする」という個別の音量操作ではなく、キックとベースが互いに邪魔をしない状態を作ることが、今回の低域処理の中心でした。
これは、この後の工程にもつながっていく「引き算のミキシング」の基本的な考え方です。
次回へ
キックとベースによってセンターの低域の土台を整えたところで、次はスネアとボーカルの配置へ進みます。
第2回では、ロックセクションのボーカルが抱えていた課題と、あえて干渉を残すという一見逆説的な判断について取り上げます。
低域で行った「邪魔をしている要素を整理して、必要な音の場所を作る」という考え方が、中域のボーカルと楽器の関係でどのように変化するのかも見ていきます。
