【制作事例】かぷりしゃす『火垂』ミックス解説 第1回:デジタルで描くアナログの温かみ — 基礎設計とボトムアップ・ミックス法
ピアノとSynthesizer V(花隈千冬)の歌声を中心にした、アコースティックで繊細な楽曲。かぷりしゃすさんの『火垂』(ひだれ)は、まさにそんな一曲です。
ミキシングとマスタリングはIkumi Magataが担当しました。この連載では全3回に分けて、その制作の裏側を具体的な数値とともに解説していきます。
第1回のテーマは「デジタルの中に、アナログスタジオの空気を作る」こと。派手なテクニックの前に、ミックス全体の思想と土台作りから見ていきましょう。
かぷりしゃすさんのイメージを「音響」に翻訳する
制作にあたって、かぷりしゃすさんからは3つのリファレンスが共有されました。
- ピアノ:haruka nakamura(映画『ルックバック』の劇伴など)のノスタルジックな質感
- ボーカル:転校生のような、息交じりで頭蓋骨や鼻骨に響くニュアンス
- 演出:笹川真生『不細工』のように、後半へ向かって徐々に歪んでいく展開
3つに共通するのは、「人の手の温度」や「その場の空気」が感じられる音だということです。打ち込みと合成音声で作られた楽曲を、そのままデジタル的に整えるだけでは、この温度感は出せません。
そこでIkumi Magataが選んだのが、「アナログレコーディングのルーティンをDAW上で再現する」というアプローチでした。
設計思想:スタジオの信号経路をDAWで模倣する
実際のレコーディングスタジオでは、音はマイク → プリアンプ → コンソール → テープ、という経路を通って記録されます。そして各段階で、ごくわずかな歪みや帯域の変化が加わります。
この「通過するたびに少しずつ色が付く」感覚こそが、アナログ録音の立体感と温かみの正体です。
そこで『火垂』では、各トラックをコンソール系のプラグインに通し、最終段ではテープエミュレーターでまとめる構成にしました。マスタリングで使ったテープについては第3回で詳しく解説します。音作りの発想そのものを、スタジオのワークフローに寄せたわけです。
ゲインステージングの鉄則:0VU = -18dBFS
アナログ的な処理を正しく機能させるうえで、最初にやるべきことはゲインステージングです。
なぜ -18dBFS なのか
アナログ機材をモデリングしたプラグインの多くは、0VU = -18dBFS付近の入力を想定して設計されています。
- 入力が大きすぎる場合:意図しない歪みやコンプの過剰反応が起き、音が平坦になる
- 入力が小さすぎる場合:プラグイン本来の「おいしい」キャラクターが出ない
『火垂』では各トラックのクリップゲイン(またはプラグイン入口のトリム)を調整し、平均レベルが -18dBFS 前後、ピークでも -10dBFS 程度に収まるように揃えてからミックスを始めました。
実践Tips:VUメーターのプラグインをインサートの先頭に挿し、演奏中の針が「0VU付近を行き来する」くらいに合わせるのが手軽でおすすめです。
「引き算のミックス」でフェーダーを正しく上げる
レベルを揃えたら、次は不要な帯域を削る作業です。
各トラックの不要な低域や、他のパートとぶつかる帯域を先にカットしておきます。こうすることで、それぞれの音が埋もれなくなり、フェーダーを無理なく適正な位置まで上げられるようになります。
足し算で音を目立たせるのではなく、引き算でそれぞれの居場所を作る。これが音像をクリアに保つ基本です。
ボトムアップで音像を固める
ミックスの順番にも明確なルールがあります。『火垂』では、センターに定位するモノラル要素から順番に組み上げました。
- キック
- スネア
- ベース
- ボーカル
楽曲の「軸」となるセンターを先に固めておくと、ピアノや空間系の要素を後から加えても音像がブレません。家を建てるときの基礎工事と同じ考え方です。
パート別の具体的な処理
キック:「バツッ」を抑えて「ボーン」を残す
繊細なピアノ曲でキックのアタックが強すぎると、それだけで楽曲の空気が壊れてしまいます。そこで次の2段階で処理しました。
- コンプレッサーでトランジェントを抑える:アタックタイムを速めに設定して、「バツッ」という鋭い立ち上がりを丸めます。リリースは曲のテンポに合わせて調整し、「ボーン」という余韻が自然に残るようにします。
- 86Hz以下をブースト:ローシェルフで86Hz以下を持ち上げ、胴鳴りの重さを補います。
さらにこの後段でコンソール系プラグインの歪みを加えると、ブーストした低域に倍音が付きます。その結果、小さなスピーカーでも存在が感じられる、柔らかく芯のあるキックになります。
スネア:Cubase純正EQの「インバート」で箱鳴りを探す
スネアには、「洗面器を叩いたような箱鳴り(不快な共鳴音)」が含まれていることがよくあります。これを効率よく見つけるために、Cubase純正EQのインバート機能を使います。
- EQのバンドを1つ選び、Qを狭く(シャープに)、ゲインを大きくブーストする
- 周波数をゆっくりスイープし、共鳴が耳障りに強調されるポイントを探す
- ポイントが見つかったらインバート(反転)ボタンを押す。ブーストがそのまま同量のカットに切り替わる
ブーストで探してカットで処理する定番の手法ですが、インバート機能を使えばワンクリックで切り替えられます。「探す耳」と「削る判断」を素早く行き来できるのが大きな利点です。
コンソール歪み:わずかなオーバーロードが立体感を生む
最後に、各トラックをMixHubやNLS Channelといったコンソール系プラグインに通します。
ポイントは、入力をほんの少しだけ過剰にすることです。はっきり聴こえるほど歪ませるのではなく、ごく微細な倍音を付加する程度にとどめます。
こうした微小な歪みが全トラックに重なることで、音の輪郭に奥行きが生まれます。デジタル特有の「平面的で硬い」印象が和らぎ、音がスピーカーの前後に立体的に並ぶようになります。
注意:ここで先ほどの -18dBFS 基準が効いてきます。入力レベルが揃っていないとトラックごとに歪み方がバラバラになり、統一感が失われてしまいます。
まとめ:土台が整ってこそ、表現が活きる
第1回では、『火垂』のミックスの土台となる考え方と手順を解説しました。
- アナログ録音の信号経路を模倣し、「通るたびに色が付く」設計にする
- 0VU = -18dBFS を基準にゲインステージングを揃える
- 引き算のミックスで、各パートの居場所を作る
- キック → スネア → ベース → ボーカルの順でセンターから固める
- コンソール系プラグインの微細な歪みで立体感を加える
どれも地味な工程ですが、ここが整っているかどうかで、後の音作りの効き方が大きく変わります。ぜひ自分のDAWでも、まずはゲインステージングから試してみてください。
次回の第2回では、いよいよ楽曲の主役であるSynthesizer V「花隈千冬」のボーカル処理と、haruka nakamuraを目指したアップライトピアノの音作りに迫ります。
連載「かぷりしゃす『火垂』ミックス解説」
- 第1回:デジタルで描くアナログの温かみ — 基礎設計とボトムアップ・ミックス法(この記事)
- 第2回:Synthesizer V「花隈千冬」とアコースティックピアノの空間・音色デザイン(10月10日公開予定)
- 第3回:空間を広げるリバーブ演出と最終マスタリング(10月11日公開予定)
この楽曲のミックス・マスタリングはAkashic Music Productionが担当しました。ご依頼についてはミックス・マスタリング依頼ページをご覧ください。

