制作事例 Highway Fee 第5回(最終回):配信規約をハックする――迫力を失わないための最終マスタリング
前回は、生録音と打ち込みが混在する「Highway Fee」の空間を、ミッドルームという中間的なリバーブでつなぎました。
さらに、仮マスタリングを行ったうえでBring Me The Horizonの「Doomed」と比較し、制作中には気づきにくかったドラムのタイトさの不足を発見。ドラムバスのコンプレッサーを調整して、ミックスを完成へ近づけました。
これでミックスとしてはひとまず完成です。
最終回となる今回は、完成したミックスを配信するための最終マスタリングを取り上げます。
マスタリングでは、単純に音圧を上げれば良いわけではありません。
現在の音楽配信では、プラットフォーム側でラウドネス・ノーマライゼーションが行われるため、マスタリング時の音量がそのまま再生時の音量になるとは限りません。たとえばSpotifyでは、通常のノーマライズ設定で楽曲を-14 dB LUFS付近に調整して再生します。
そこで今回の「Highway Fee」では、配信時のノーマライゼーションを前提にしながらも、楽曲本来の迫力をできるだけ維持することを目標に最終マスタリングを行いました。
音圧を上げるだけでは、配信後の聞こえ方は決まらない
今回のマスタリングで最初に考えたのは、「できるだけ大きくする」という方向ではありませんでした。
配信プラットフォームでは、楽曲間の音量差を抑えるためにラウドネス・ノーマライゼーションが使用されています。
Spotifyでは、デフォルトの再生レベルを-14 dB LUFSとしており、マスタリング時のラウドネスがそれより高い楽曲は、再生時にゲインを下げて調整されます。Spotifyは、この処理によって大きなマスターの音量を下げる場合、追加の歪みは生じないと説明しています。
つまり、「マスタリング時にとにかく音圧を上げれば、配信後もその分だけ大きく聞こえる」という単純な関係ではありません。
むしろ、過度なリミッティングによってダイナミクスやアタックを失えば、ノーマライズ後に期待したような迫力が残らない可能性があります。
そのため今回のマスタリングでは、単純な最大音圧ではなく、音圧感とトランジェント、そして配信時の再生を考慮しながら設定を決めています。
ヘッドルームを確認してからマスタリングを始める
マスタリングチェーンに入る前に、まずミックスのヘッドルームを確認しています。
今回の目安として、ピークに対しておよそ-6~-7dB程度の余裕が確保されていることを確認しました。
これは、マスタリングで使用するEQやサチュレーション、コンプレッション、リミッターなどの処理に余裕を持たせるためです。
ミックス段階ですでにリミッターで極端に押し上げられた状態からマスタリングを始めるのではなく、最終的な音圧を作るための余地を残しておきます。
マスタリングは、ミックスを完成させた後に音量だけを上げる工程ではありません。
完成したミックスを最終的な再生環境へ適応させるための工程だからこそ、最初にどれだけ余裕が残っているかを確認することが重要になります。
質感を整える――EQとコンソール/サチュレーション
使用プラグイン:SSL EQ、NLS Channel、Infected Mushroom Pusher
ヘッドルームを確認した後、最終的な音の質感を整えていきます。
SSL EQで不要な帯域を整理する
まずSSL EQを使用し、18Hzをカットしています。
さらに250~350Hz付近を微調整しています。
ここでは、ミックス段階で作り上げた各パートのバランスを大きく変更するのではなく、マスター全体として不要な成分や過剰になっている部分を整理することを目的としています。
第1回から見てきたように、「Highway Fee」のミックスでは各パートの段階ですでに不要な干渉を整理しています。
そのため、マスタリングで大幅なEQ補正を行うのではなく、あくまで最終的な質感の調整としてEQを使用しています。
NLS ChannelとPusherで質感を加える
続いてNLS Channelを使用して倍音を付加しています。
さらにInfected Mushroom PusherをKey A設定で使用しています。
これらの処理によって、単純にEQで周波数バランスを変更するだけではなく、倍音や質感の変化を加えています。
マスタリングでは、音を「大きくする」ことだけに意識が向きがちです。
しかし、最終的な印象を決めるのはラウドネスだけではありません。
どのような質感で鳴るのか、アタックがどの程度残っているのか、低域から高域までどのようにつながっているのか。
そうした要素を含めて最終的な音源として整えていきます。
配信を意識してTrue Peakとラウドネスを設定する
使用プラグイン:Waves L4 Ultramaximizer
配信時のノーマライゼーションを前提にする
今回の最終マスタリングで重要になるのが、True PeakとIntegrated LUFSの設定です。
配信プラットフォームでは、再生時にラウドネス・ノーマライゼーションが行われるため、マスタリング時のIntegrated LUFSだけを見て音圧を決めることはできません。
Spotifyは、マスターを-14 dB Integrated LUFSに設定し、True Peakを最大でも-1 dB以下にすることを基本的なマスタリングの目安として案内しています。また、-14 dB LUFSより大きくマスタリングする場合には、True Peakを-2 dB以下にすることを推奨しています。
今回の「Highway Fee」では、この考え方を踏まえたうえで、Waves L4 Ultramaximizerを使用しています。
-11 LUFS、-2 dBTPという判断
今回採用した設定は、True Peakを-2 dBTP、Integrated LUFSを-11 LUFSとしています。
ここで重要なのは、これが「すべての配信プラットフォームで必須となる規約値」という意味ではないことです。
今回の楽曲では、EDMドロップを含む楽曲としての迫力を維持することを優先し、そのうえでTrue Peakに余裕を持たせるという判断から、この数値を選択しています。
Spotifyにはユーザー側の音量ノーマライズ設定もあり、Premiumでは「大音量」「標準音量」「小音量」の選択ができます。「大音量」では-11 dB LUFSが基準として使用されています。
そのため、今回の-11 LUFSという設定は、単純に「配信で最大音量にするための数値」ではなく、今回の楽曲のジャンル感、迫力、リミッターによる音の変化、そしてTrue Peakの余裕を総合して決めたマスタリング上の選択です。
True Peakに余裕を残す理由
True Peakを-2 dBTPに設定したのも、単純に数値上の安全マージンを作るためだけではありません。
ストリーミング用の音源では、配信側でエンコードが行われる場合があります。
Spotifyも、-14 dB LUFSより大きくマスタリングする場合にはTrue Peakを-2 dB以下にすることで、エンコード時の追加の歪みを避けることを推奨しています。
つまり、マスタリング段階で可能な限り大きくするのではなく、配信後の変換まで含めて最終的な音を考える必要があります。
結果
最終的には、EDMドロップを含む楽曲として必要な音圧感と迫力を維持しながら、True Peakに余裕を持たせた状態で完成させています。
ここでのポイントは、「規約ギリギリまで音圧を上げた」のではなく、配信時のノーマライゼーションやエンコードを前提として、楽曲の迫力をどこまで維持できるかという観点から最終値を決めたことです。
マスタリングはミックスの失敗を隠す場所ではない
ここまで5回にわたって制作工程を追ってきましたが、最終マスタリングで突然すべてを整えたわけではありません。
むしろ、マスタリングで大きな修正を必要としない状態まで、ミックス段階で問題を解決しておくことが重要でした。
第1回では、キックとベースの干渉を整理しました。
第2回では、スネアとボーカルについて、同じマスキングでも削る場合と残す場合を判断しました。
第3回では、EDMドロップの主役をシンセリードへ交代させ、ベース、クラップ、リードギターをそれぞれ異なる方法で整理しました。
第4回では、ミッドルームによって空間を統一し、市販曲との比較によってドラムのタイトさを修正しました。
こうしてミックス段階で各問題を解決していたからこそ、マスタリングでは大幅な音色補正を行う必要がありませんでした。
マスタリングは、ミックスの問題を最後にまとめて隠す場所ではありません。
完成したミックスを、配信や再生環境という「出口」に合わせて最終的に整える工程です。
ミックスで音楽的なバランスを作り、マスタリングでそのバランスをできるだけ維持しながら、最終的な再生レベルや質感を整える。
この役割分担が、今回の「Highway Fee」の制作工程でも重要になっています。
今回のマスタリングから分かること
今回の最終工程を整理すると、次のような流れになります。
- ミックスのヘッドルームを確認する
- SSL EQで不要な帯域を整理する
- NLS Channelで倍音を付加する
- Infected Mushroom Pusherで質感を調整する
- Waves L4 Ultramaximizerで最終的な音圧を整える
- Integrated LUFSとTrue Peakを確認する
- 配信時のノーマライゼーションやエンコードを考慮して最終値を判断する
ここで重要なのは、数値そのものを目的にしないことです。
「-11 LUFSにする」「-2 dBTPにする」という数値だけを覚えても、それだけで適切なマスタリングになるわけではありません。
曲のジャンル、アレンジ、ダイナミクス、トランジェント、音色、そしてどのような再生環境で聴かれるのか。
それらを確認したうえで、最終的な設定値を決める必要があります。
また、配信プラットフォームの仕様や推奨値は変更される可能性があります。
そのため、実際に配信する際には、その時点で利用するプラットフォームの公式ガイドラインを確認することも重要です。
5回にわたる「Highway Fee」制作事例を振り返る
ここまで全5回にわたって、「Highway Fee」のミックス・マスタリング工程を追ってきました。
第1回では、キックとベースの低域処理を通じて、聞こえない音をフェーダーで持ち上げるのではなく、邪魔している帯域を整理する「引き算」の考え方を取り上げました。
第2回では、スネアの200Hz付近の干渉を削る一方で、ボーカルの低域はあえて残すという、マスキングを一律に悪いものとして扱わない判断を解説しました。
第3回では、EDMドロップで主役がシンセリードへ交代する場面を取り上げ、ベースのダッキング、クラップへの倍音付加、リードギターのフレーズ頭のオートメーションなど、フェーダー以外で存在感を作る方法を見てきました。
第4回では、生録音と打ち込みによる空間の違いをミッドルームでつなぎ、市販曲とのミックスリファレンス比較によって、自分たちのミックスに不足していたドラムのタイトさを発見しました。
そして第5回では、完成したミックスを最終マスタリングへ進め、配信時のノーマライゼーションやTrue Peakを考慮しながら、最終的な音圧と質感を決定しました。
この5回を通して見てきたのは、特別なプラグインを使えば一気に音が完成するという話ではありません。
キックとベースの関係を整理する。
スネアとボーカルのマスキングを判断する。
セクションが変われば主役も変える。
異なる音源の空間をつなぐ。
市販曲と比較して自分のミックスを検証する。
そして最後に、配信という出口を考えてマスタリングする。
こうした一つひとつの判断を積み重ねることで、1曲のミックスとマスタリングが完成形へ近づいていきます。
「Highway Fee」の制作事例が、単なるプラグインの使用例ではなく、ミキシングで何を聞き、何を問題として捉え、どのような判断をしているのかを知るための参考になればと思います。
